おかだのブログ

たくさん本読みます

【継続】武器になる哲学 09悪の陳腐さ【勉強用】

武器になる哲学読みます。

 

 

 

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「役に立たない学問の代表」とされがちな哲学は、ビジネスパーソンの強力な武器になる。現役で活躍する経営コンサルだから書けた、「哲学の使い方」がわかる1冊。


【本書で紹介するキーコンセプト】
●第1章 「人」に関するキーコンセプト 「なぜ、この人はこんなことをするのか」を考えるために
・ロゴス・エトス・パトス――論理だけでは人は動かない(アリストテレス
・悪の陳腐さ――悪事は、思考停止した「凡人」によってなされる(ハンナ・アーレント) ほか

●第2章 「組織」に関するキーコンセプト 「なぜ、この組織は変われないのか」を考えるために
・悪魔の代弁者――あえて「難癖を付ける人」の重要性(ジョン・スチュアート・ミル
・解凍=混乱=再凍結――変革は、「慣れ親しんだ過去を終わらせる」ことで始まる(クルト・レヴィン) ほか

●第3章 「社会」に関するキーコンセプト 「いま、なにが起きているのか」を理解するために
アノミー――「働き方改革」の先にある恐ろしい未来(エミール・デュルケーム
・パラノとスキゾ――「どうもヤバそうだ」と思ったらさっさと逃げろ(ジル・ドゥルーズ) ほか

●第4章 「思考」に関するキーコンセプト よくある「思考の落とし穴」に落ちないために
シニフィアンシニフィエ――言葉の豊かさは思考の豊かさに直結する(フェルディナンド・ソシュール
反証可能性――「科学的である」=「正しい」ではない(カール・ポパー) ほか 

 

www.kadokawa.co.jp

 

 

もう完全に冬ですね。

 

寒いのは苦手です。

 

 

【09悪の陳腐さ】ハンナ・アーレント

 

 

ja.wikipedia.org

 

彼女を題材とした映画もあるようです。

 

www.cetera.co.jp

 

youtube予告編

 

www.youtube.com

 

 

ナチスドイツによるユダヤ人虐殺計画において、

600万人を「処理」するための効率的なシステムの構築と運営に主導的な役割を果たしたアドルフ・アイヒマンは、

1960年、アルゼンチンで逃亡生活を送っていたところを非合法的にイスラエルの秘密警察=モサドによって拿捕され、エルサレムで裁判を受け、処刑されます。

 

ja.wikipedia.org

 

このとき、連行されたアイヒマンの風貌を見て関係者は大きなショックを受けたらしい。

それが彼があまりにも「普通の人」だったからです。

 

 

アイヒマンを連行したモサドのスパイは、

アイヒマンについて「ナチス親衛隊の中佐でユダヤ人虐殺計画の指揮をしたトップ」というプロファイルから「冷徹で屈強なゲルマンの戦士」を想像していたらしいのですが、

実際の彼は小柄で気の弱そうな、ごく普通の人物だったのです。

 

 

しかし裁判はこの「気の弱そうな人物」が犯した罪の数々を明らかにしていきます。

 

 

この裁判を傍聴していたハンナ・アーレントは、

その模様を本にまとめています。

 

 

主題はそのまんま『エルサレムアイヒマン』となっていてわかりやすのですが、

問題はその副題です。

アーレントはこの本の副題に「悪の陳腐さについての報告」とつけています。

 

 

「悪の陳腐さ」・・・奇妙な副題だと思いませんか。

通常「悪」というのは「善」に対置される概念で、

両者は共に正規分布でいう最大値と最小値に該当する「端っこ」に位置付けられます。

 

 

しかし、アーレントはここで「陳腐」という言葉を用いています。

「陳腐」というのはつまり「ありふれていてつまらない」ということですから、

正規分布の概念をあてはめればこれは最頻値あるいは中央値ということになり、

我々が一般的に考える「悪」の位置付けとは大きく異なります。

 

 

アーレントがここで意図しているのは、我々が「悪」についてもつ「普通ではない何か特別なもの」という認識に対する揺さぶりです。

アーレントは、アイヒマンが、ユダヤ民族に対する憎悪やヨーロッパ大陸に対する攻撃心といったものではなく、

ただ純粋にナチス党で出世するために、与えられた任務を一生懸命こなそうとして、

この恐るべき犯罪を犯すに至った経緯を傍聴し、最終的にこのようにまとめています。

 

 

曰く、

「悪とはシステムを無批判的に受け入れること」と。

 

 

その上でさらに、アーレントは「陳腐」という言葉を用いて、この「システムを無批判的に受け入れる悪」は、我々の誰もが犯すことになってもおかしくないのだ、という警鐘を鳴らしています。

 

 

別の言い方をすれば、通常、「悪」というのはそれを意図する主体によって能動的になされるものだと考えられていますが、アーレントはむしろ、それを意図することなく受動的になされることにこそ「悪」の本質があるのかもしれない、と指摘しているわけです。

 

 

私たちはもちろん、所与のシステムに則って日常生活を営んでおり、その中で仕事をしたり遊んだり思考したりしているわけですが、私たちのうちどれだけが、システム持つ危険性について批判的な態度を持てているか、少なくとも少し距離をおいてシステムそのものを眺めるということをしているのかと考えると、これははなはだ心もとない

 

 

自分を含め、多く人は、現行のシステムがもたらす悪弊に思いを至すよりも、システムのルールを見抜いてその中で「うまくやる」ことをつい考えてしまうからです。

 

 

しかし、過去の歴史を振り返ってみれば、その時代その時代に支配的だったシステムがより良いシステムにリプレースされることで世界はより進化してきたという側面もあるわけで、現在私たちが乗っかかっているシステムも、いずれはより良いシステムにリプレースされるべきなのかも知れません。

 

 

仮にそのように考えると、究極的には世の中には次の二つの生き方があるということになります。

 

 

①現行のシステムの所与のものとして、その中でいかに「うまくやるか」について、思考も行動も集中させる、という生き方

 

②現行のシステムの所与のものとせず、そのシステム自体を良きものに変えていくことに、思考も行動も集中させる、という生き方 

 

 

残念ながら多くの人は上記の①の生き方を選択しているように思います。

書店のビジネス書のコーナーを見ればわかるように、ベストセラーと呼ばれる書籍は全て嫌らしいくらいに上記の①の論点に沿って書かれたものです。

 

 

こういったベストセラーは大体、現行のシステムの中で「うまくやって大金を稼いだ人」によって書かれているため、これを読んだ人が同様の思考様式や行動様式を採用することでシステムそのものは自己増殖/自己強化を果たしていくことになります。

しかし、本当にそういうシステムが継続的に維持されることはいいことなのでしょうか。

 

 

話を元に戻せば、ハンナ・アーレントの提唱した「悪の陳腐さ」は、20世紀の政治哲学を語る上で大変重要なものだと思います。

人類史上でも類を見ない悪事は、それに見合うだけの「悪の怪物」がなしたわけではなく、思考を停止し、ただシステムに乗っかってこれをクルクルハムスターのように回すことだけに執心した小役人によって引き起こされたものだ、とするこの論考は、当時衝撃をもって受け止められました。

 

 

凡庸な人間こそが、極め付けの悪となりうる。

「自分で考える」ことを放棄してしまった人は、誰でもアイヒマンのようになる可能性があるということです。

その可能性について考えるのは恐ろしい事かも知れませんが、しかし、だからこそ、人はその可能性をしっかり見据え、思考停止してはならないのだ、ということをアーレントは訴えているのです。

私たちは人間にも悪魔にもなり得ますが、両者を分かつのは、ただ「システムを批判的に思考する」ことなのです。

 

 

【感想】

 

 

「悪とはシステムを無批判的に受け入れること」

 

割と響く言葉ですね、、、

 

 

確かにシステム自体を批判するのではなく、

その中でどうにかしよう、と考える節はあります。

 

正しいシステムのなかであれば問題ないのですが、

間違ったシステムに入れられてしまった時に自分がその選択をできるのか、

今一度考える必要はありますね。

 

 

必要なのは自分で見て、考えて、選ぶ事

 

 

ちゃんと考えられる人間になりたいです。

 

 

【総括】

思考を停止した凡人というパワーワード

 

 

 

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